#魏志倭人伝 #完全解読 その1 国名比定
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Index
0)狗邪韓国から邪馬台国までの道程 |
1)紀伊半島東岸 北→南 |
2)美濃国(岐阜県) 東→西 |
3)四国東部 時計回り |
4)紀伊半島西岸と大阪湾京都府南部 南→北 |
5)本州瀬戸内海沿岸 東→西 |
6)女王国連合に含まれない国 |
7)倭人とおもわれる人物の人名比定 |
8)各国の官名 |
9)付録 後漢書記載の奴國王、及び倭國王帥升について |
0)狗邪韓国から邪馬台国までの道程
對馬國 ト甲(ス)マ 対馬 (長崎県対馬市)
一支國 イ甲(チ)キ甲 壱岐 (長崎県壱岐市)
注:この二つは、特に異論はないだろう。對の上古漢字音では、韻尾にsがあり、そのsと馬のma で併せてsima を表しているらしい。壱岐も、古くはイチキであったかもしれない。
末盧國 マツラ 松浦(佐賀県松浦市)
注:末盧国は、日本国内では、後に末羅国とも書かれ、その後、松浦になったが一貫して「マツラ」と読まれてきた。
伊都國 イト甲 怡土県(福岡県糸島市)
注:伊都国は北部九州の諸国に卑奴母離を送り込んでいるようだ。おそらく奴国王族が奴国から遷都したのが伊都国だろう。つまり、伊都国王族もまた下記の難氏で、多氏だったと思われる。
奴國 ナ 儺県(福岡市)
注:57年に後漢に朝貢し漢委奴國王印を下賜された奴国であろう。この奴國王族は、中国向けには、儺を姓としていた可能性があり、略して難としていたかもしれない。おそらく、魏志倭人伝で魏や帯方郡と行き来していた難升米は、奴國王族であろう。そして、倭國内では、多氏を名乗ったようだ。
不彌國 ホ乙ミ甲 穂波(飯塚市)
注:飯塚市近辺には、出現期(卑弥呼時代直後)の古墳、忠隈1号墳がある。不という字はホ乙ツとも読めるので、不彌は穂積を表している可能性もある。穂積氏は物部氏と同系の饒速日後裔氏族で、饒速日はこの遠賀川上流(穂波川とか)あたりに降臨したという伝承もあるらしく、この辺りは、物部氏ゆかりのものがおおい。
投馬國 ヅマ 出雲国 (島根県出雲市)
注:ほぼ確実に日本海航路なので、出雲だと思われるが、安曇など海民との関係もありそうだ。出雲の神々は陸地系で、実際には日本海沿岸の海民も絡んでいたはずだから、安曇、尾張、さらに和邇など日本海系と思われる海民と共に活動していた陸の民が出雲人だろうか。
邪馬臺國 ヤマト乙 大和国 (奈良盆地全域)
注:倭國はほぼ奈良盆地全域であったと考えられる。
付記:各国の人口について
魏志倭人伝には、邪馬台国までの経路上の国々について、官名や戸数を簡略にしるしている。1戸あたり3人として人口を計算すると、大体以下のようになる。
末廬國 四千餘戸 13,000人
伊都國 千餘戸 4,000人
奴國 二萬餘戸 70,000人
不彌國 千餘家 4,000人
投馬國 五萬餘戸 160,000人
邪馬壹國 七萬餘戸 250,000人
合計で、ざっと50万人になるが、3世紀前半の日本列島の推定人口は100万人に満たないから、この6ヶ国だけで、倭の人口の半数を超えることになり、実際は投馬國と、邪馬台国だけで、倭の人口の半数を占める計算になる。ほかにも、狗奴国や、吉備(支惟國)などの人口の多い可能性がある地域もある。この人口の話は、念頭においた上で、いろいろ考えていく必要がある。
1)紀伊半島東岸 北→南
注:日本列島には多数の島があるが、地名でシマというのは、案外少なく、他に糸島市の元になった志摩郡がある程度。邪馬台国九州説ならば(伊都國に近すぎるけれど)そこに比定することになるだろうけれど。
已百支國→己百支 コ乙ハキ甲 小脇 (三重県尾鷲市小脇町 曽根遺跡)
注:「→」は誤記の指摘と、推定される元の形を示す。
注:コ乙ハキ甲は、木履でぽっくり(木靴)だろうか。若狭国式内社で許波伎神社がある。いくつか論社があるが、その地名は強木(コワキ<コ乙ハキ乙)、小脇(コワキ<コ甲ワキ甲)などがある。許波伎は己百支と音韻的には完全に一致するが、強木、小脇は一致しない。後世になると、発音の区別は失われるものである。
伊邪國 イ甲ヤ 熊野(イ/ユヤ)国 (和歌山県南部)
注:和歌山県内では、熊野と書いてイヤと読む地域が残っている。一方で、クマノは、球磨濃のような漢字音を当てた表記はなく、漢字表記では必ず「熊野」と書かれるから、古くはイヤあるいはユヤであり、これに漢字の音をあてて「熊野」と書かれ、のちにクマノと読まれるようになったということだろう。漢字使用がいつから始まったかにも関わる話である。
2)美濃国(岐阜県) 東→西
都支國 ト甲キ甲 土岐郡
注:美濃国多藝郡の可能性もあるが、この一帯では、後述のように模韻の文字(奴など)をオ甲段としているので、ト甲キ甲と読み、土岐郡に当てる。
彌奴國 ミ甲ノ甲 本巣郡美濃郷
注:美濃の国造は尾張氏同族。
好古都國→奴古都 ノ甲コ甲ト甲 池田郡額田郷
注:額田国造は和邇氏。
不呼國 ホ乙ワ→(オ)ホ(ミ)ワ 山県郡大神郷
注:これはどうしても苦しい。あるいは穂積氏や物部氏を表す、穂と和邇氏を表す和を合わせた穂和(ホ乙ワ)というような地名があったのかも知れない。美濃国不破郡の不破に比定する場合が多いが、これはないだろう。破(pa)と呼(hua/huo)ではかなり発音が異なる。
姐奴國→妲奴 タツノ甲 立野 多藝郡立野郷
注:姐という字は、想定される3世紀ごろの日本語では存在しない音(チャ、ツァなど)なので、形状が似ている妲の誤記と判断した。此の地域では、都、奴、古などの模韻の字は、他の地域では、ア段で読むことが多いが、岐阜県あたりでは、オ甲段で読む特徴がある。したがって、彌奴國や姐奴國は、特に奴國とは関係なし、と考えても良さそうだ。もともと、兵庫県の龍野(たつの市)を考えていたが、場所的に播磨で巴利国とぶつかるのと、模韻字をア段とする傾向があるので、色々とタツノを調べていたが、実際にいろいろあり、表記も龍野、立野、辰野などで、読み方もタチノだったりする。
3)四国東部 時計回り
對蘇國 ト甲サ 土佐国 (高知県)
注:これはほぼ間違いあるまい。
蘇奴國 サナ(キ甲) 讃岐国 (香川県)
注:岐(キ甲)は吉備のキ甲と同じで吉備との関連がありそうだ。3世紀には、サナ国であったが、後に、サナキとなり、サヌキに転じたと考えることができる。
呼邑國→呼色 ワシ甲キ 和食(ワジキ 徳島県那賀郡那賀町和食)
注:「邑」という字は、やはり想定される3世紀の日本語の音韻にあわず、また、呼の母音(ア段)との調和を考慮しても、誤記と考えた。似ている字として「色」とするとワシク、ワシカ、ワシキなどの地名が考えられ、これらもまれな地名だが、徳島県と高知県に、和食(ワジキ)という非常に珍しい地名が見つかった。那賀郡那賀町は弥生時代からの辰砂(丹砂、赤色硫化水銀で赤色顔料)の鉱山がある。
華奴蘇奴國 ワナサナ 和奈佐意富曽神社(徳島県海陽町)
注:意富曽(オ乙ホ乙ソ乙)は多襲(多氏の首長)の意味であれば奴国との繋がりがある。つまり、和奈佐意富曽神社は華奴蘇奴襲(ワナサナソ乙)神社になる。和奈佐意富曽神社は、式内社である。
4)紀伊半島西岸と大阪湾京都府南部 南→北
鬼國 キ乙 紀伊国(和歌山県和歌山市)
注:鬼(kuj)という字は、キ乙以外に考えられない。城や木を表す。
爲吾國 ヱ乙ガ 河内国恵我(大阪府羽曳野市 古市古墳群)
注:一般に伊賀と比定されることが多いが、伊(i)と為(waj)は発音が全く異なり、また賀(ga/ha)と吾(nga 鼻濁音)も発音は異なる。ワ行エ段のヱには甲乙の区別がないが、ヱ乙ならば、3世紀当時の発音は、waiと想定され、恵我(wainga)は爲吾(wajnga)とほぼ完全に一致する。河内国であれば、物部氏などとの関係もあるかも知れない。
鬼奴國 キ乙ナ 木津(京都府木津川市 木津以北の木津川下流域)
注:上記の河内国恵我から大和川を遡ると、大和国中央部の邪馬台国(纒向遺跡)に辿り着き、そこから大和国を北上すると、木津川に出る。木津川上流は伊賀を通って、三重県津市近辺にいたる。また、木津川を下ると、宇治川や桂川と合流して、河内湖に注ぐ。木津川流域には、弥生時代からの集落跡が多数存在し、また、3世紀後半から末に築造とされる椿井大塚山古墳がある。
邪馬國 ヤマ 山科(京都市山科区 中臣遺跡)
注:木津川の木津より下流に奈良時代ごろ山本駅(JRや近鉄の三山木駅の近辺)というのがあったとされ、これも邪馬国の候補ではあるが、これは木津に近すぎるので、鬼奴國の範囲だと思われる。山科だとしたら、山(ヤマ)は比叡山を表すと思われる。
躬臣國 ク(ン)ジ甲 山城国乙訓郡訓世郷 (京都府向日市近辺)
注:桂川、宇治川、木津川が合流するあたりは、久世郡久御山町など、久世という地名も多い。かなり広範囲を指していると思われる。このあたりにも、弥生時代から古墳時代にかけての多数の遺跡が存在する。
5)本州瀬戸内海沿岸 東→西
巴利國 ハリ甲 播磨国 (兵庫県南部)
注:姫路市よりは龍野(たつの市)の方が日本海側との関係も深い。海岸沿いの細い平野部を針と呼ぶことがあるらしい。播磨は元は針間と書いた。ハリという地名は、針(奈良市)、名張(三重県)、尾張(愛知県)などにもあるが、地域的につながらないので、播磨を選んだ。
支惟國→支椎(堆) キ甲ツ 吉(キツ)備中国都宇郡 (岡山県岡山市)
注:惟という字も、当時の日本語発音では一般的でなさそうな、ユイという発音であるため、似た字である、椎(あるいは堆)の誤記とした。吉備の備(ビ乙)は恐らく廻、傍(ビ乙、ミ乙)で、周囲という意味。備中都宇郡(吉備の中心部)を中心にした地域が吉(キツ)国(支惟國)で、その周囲が、キ甲ツビ乙、で吉備になったのだろう。都宇はツウと読むが、元は「津」1文字だった。
烏奴國 アナ 吉備穴国 (広島県福山市)
注:吉備穴国造は和邇氏同族の安那(アナ、ヤスナ)氏。吉備内でも別系統になる。福山市は、遺跡も多く、出雲との交流も多い。
奴國 ナ/ヌ 沼田(ヌタ)安芸国沼田郡 (広島県広島市)
注:この比定は厳密ではないかも知れない。北部九州の奴国を表す可能性もある。ただ、瀬戸内海をさらに西に進むと、四国の伊予(愛媛県)や九州の豊後大分国などがあり、これらは狗奴国との関係があり、女王国とは対立していた可能性が高い。その意味で、ここの奴国は、広島県から山口県瀬戸内海側にあったと考えられ、地名との対応で、沼田を選んだ。
6)女王国連合に含まれない国
注:小/子奴国 小さい/子の、奴国。 多氏(奴国王族)の分家筋ではないか。多氏が国造の九州の阿蘇国(熊本県)、大分国(オホキタ 大分県)、四国の伊予国(愛媛県)、本州では科野国(信濃 長野県)、また女王国連合に現れない明石国(兵庫県)や摂津国(当時は摂津の概念がないので河内湖の北方、大坂市北部から兵庫県東部)、粟国(阿波国のうち長国=那賀郡以外 徳島県北部)と連合していた可能性が高い。ただ、卑弥呼の死以降、紀伊半島からの豊城入彦軍(四道将軍の武渟川別もいたかもしれない)と濃尾平野北部からの尾張和邇連合軍に挟み撃ちされたようだ。その後、豊城入彦を迎えて、狗奴国残党をまとめて関東の毛野に入植したのだろう。毛野の地域では、東海様式の土器がかなり出てくるが、それは、4世紀ごろからで、卑弥呼時代の3世紀前半は、関東はまだ開拓されていなかったと考えられる。ということは、狗奴國は、3世紀中は充分に持ち堪え、最終的に狗奴國が制圧されたのは、4世紀ということになる。
毛野(ケ乙ノ甲)と狗奴(コ甲ノ甲)は発音上一致しない。方言を考慮しても一致しないので、別と考える。毛野と発音が近いのは、鬼奴國(キ乙ノ甲)であるが、こちらは、上記のように木津に比定したので、ここでは、鬼奴国と毛野も関係がないと判断する。
なお、狗奴国と連合していた可能性のある摂津の宝塚市の安倉高塚古墳から呉の年号である赤烏七年の紀年鏡が出土、また毛野の領域の山梨県の鳥居原狐塚古墳から赤烏元年鏡が出土している。狗奴国は確実に中国の呉と交流があり、魏と外交関係があった女王国連合と外交の上でも競り合っていたのだろう。その場合、伊勢湾沿岸の狗奴国は、瀬戸内海航路や太平洋航路で、九州と連携し、かつ、中国の呉との外交をもっていたことになる。だから、狗奴国としては、紀伊半島の熊野や四国の土佐あたりが女王国に抑えられいて、北部九州との連携が難しくなっていたと考えられる。
7)倭人とおもわれる人物の人名比定
卑彌呼 ヒ甲-ミ甲ワ 日-神 倭迹迹日百襲姫命卑彌弓呼→卑己-彌呼 ヒ甲コ乙-ミ甲ワ 日木-神 吉備津彦?
注:これまで、卑彌呼は、姫子などとされてきたが、呼は、地名比定でも一貫してワをあらわしている。よって、卑彌呼は、ヒミワであり、ヤマトであれば、大神(オホミワ)神社の例などからして、神をミワと読むことから考えると、日神の意味と考えるべきだろう。
狗奴国王の卑彌弓呼は、誤記で、卑己彌呼とすれば、日木神になる。卑彌呼は、独自の太陽神信仰(これが鬼道だろうか)を始めている。これに対抗し、日木神信仰とでもいうべきものを創始したのが、狗奴国王の卑己彌呼ではなかったか。
難升米 ナソ乙メ乙 儺襲目
注:奴国(→伊都国)王族が中国式に儺、難(上古音はともに、narで同じ)氏を名乗り、称号として、升=襲であり、個人名が目(メ乙)であったと考えられる。
都巿-牛利 タド乙-ゴ乙リ甲 宗像三神の田心姫(たごりひめ)と関係か?
注:都市(タド)は、「田所」などと読めなくはない。田心姫は多紀理毘売とも書き、この場合、タキリビメと読むが、紀という文字も、上古音では、コ乙と読むことができる。都市牛利が女性だったかどうかは別にして、北部九州と朝鮮半島を行き来していた、外交官としてのタドゴリなる人物がいて、後に、田心姫の伝承に繋がった可能性はある。
伊聲耆 イ甲セ甲(ン)ギ甲 イセギ
掖邪狗 ヤ(ク)ヤコ甲 ヤケ甲コ甲 ヤケコ
烏越 アワ/アヲ甲(チ/ツ) 泡/青
注: そのような名前だったのだろう。
壹與 ト乙ヨ乙(ス) 豊(鋤)→豊鋤入姫
注: 崇神の娘である豊鋤入姫は、天照大神を祭る初代斎宮とされる。卑弥呼=天照大神とすれば、それを祀った初代斎宮の豊鋤入姫は年齢的にも、もっとも相応しい。
8)各国の官名
a) 対馬国、一支国卑狗 ヒ甲コ甲 日子、彦
卑奴母離 ヒ甲ナモ乙リ甲 夷守
注:卑奴母離について、母はモ乙であり、古事記では、守は、モ甲リであるから、合わないという話もある。ただ、モについては、甲乙が厳密でなかった。仮に守る(モル)という動詞が、目(マ)から派生した動詞ならば、母音交替の原則からして、マ→モ乙である。魏志倭人伝の記述は古い時代の発音を反映していると思われる。
b) 伊都国
爾支 ニ甲キ甲 (邇)邇芸や百済王の(コ)ニキ(シ)と関係か?
注:爾支が伊都国王なのか、王は別なのかは不明。
泄謨觚 シ甲マコ甲 島子
柄渠觚 ハ(ン)ガコ甲 ハガコ 擌(はが 鳥を捉える道具)子か
注:擌子(はがこ)であれば、鳥飼部のような職掌。
c) 奴国
兕馬觚→兔馬觚 タ(シ)マコ甲 但馬子
注:これは苦しいところだが、タジマという語彙は古代日本語ではいろいろ出て来る。
d) 不彌国
多模 タマ 玉
e) 投馬国
彌彌 ミ甲ミ甲 耳
彌彌那利 ミ甲ミ甲ナリ甲 耳鳴
注:ミミは、神武の子にミミが多いのと関連しているだろう。
もしかしたら、出雲系地祇の国の官が、ミミだったのかもしれない。
f) 邪馬台国
伊支馬 イ甲キ甲マ イクメ(活目) 垂仁?
注:邪馬台国の官は、邪馬台国の王がいたかどうか、などが不明。
伊都国についても、伊都国王が、爾支だったのか、別にいたのかと同じく、邪馬台国の王が、イキマだったのか、卑弥呼が兼ねたのかは、よくわからない。ただ、垂仁が活目という名前だったことからして、これは、イキマと読めるので、邪馬台国の首長の官名だったかもしれない。
彌馬升 ミ甲マソ乙 御間襲 御間の長
弥馬獲支 ミ甲マワキ甲 御間脇 御間の副長
注:ミマソ、ミマワキのミマは、御間であり、卑弥呼の属する一族の居る場の意味で、後の天皇家の場という意味ではないかと思われる。
奴佳鞮 ナカテ乙 中手 中臣と関係するか?
g) 狗奴国
狗古智卑狗 コ甲コ甲チ甲ヒ甲コ 菊池彦か?
注:狗奴国の狗古智卑狗は、菊池彦の可能性はある。一般に邪馬台国九州説では、狗奴国を熊襲とし、肥後国菊池郡と関連させる。しかし、狗奴国が、伊勢湾沿岸であったとしても、多氏連合で、九州の阿蘇国造などと関係するなら、肥後国菊池郡とも関係があるかもしれない。
9)付録 後漢書記載の奴國王、及び倭國王帥升について
a) 奴國王 神武天皇57年に後漢に朝貢し、「漢委奴國王」の金印を賜った奴国王である。
倭国は当時小国に分かれていたことが判明しているが、弥生時代後期にあたり、既に銅鐸祭祀などの青銅器祭祀が近畿地方から東海地方まで広がっていた時代であり、鉄器の使用も始まっていた時代である。よって、中国(後漢)の楽浪郡や朝鮮半島との交易、すなわち威信財や青銅器や鉄器の原料の輸入と、その対価としての宝玉、木材、米などを輸出することで成り立った博多湾の奴国の国王であったと思われる。
後の時代に、この奴国王の後裔を語ることに意味があったと思われ、その点で、この奴国王は、九州、四国、東国に分布する多氏の祖先と考えられ、神武天皇のモデルとなった人物と想定できる。
b) 倭國王帥升→師升 シ甲ソ乙 孝昭天皇
107年に後漢に朝貢した複数の倭国の首長のトップであり、後漢から倭国王と認定された人物である。後漢書では、帥升と書かれるが、他の漢籍では、師升とも書かれている。升は、上記8)に書いたように襲に対応し、首長を表す語彙と考えられるので、師升は、師襲であり、師という国または地域の首長と考えられる。
天皇家の系譜では、第三代安寧天皇が磯城津彦であり、磯城は師木とも書かれるので、師襲は、磯城県主に相当し、和邇氏の祖となった孝昭天皇のモデルとなった人物と想定できる。
以上から、神武天皇は紀元前後に生まれ、57年に後漢に朝貢し、その子孫は九州各地の首長になり、また、神武天皇の子孫は出雲と連携して近畿地方にも進出し、第三代安寧天皇のころまでに磯城津彦として、磯城県主(師襲=師升)、その孫の孝昭天皇は、日本海沿岸の海人集団の尾張氏の祖より世襲足媛を妃として迎え、その子の一人が和邇氏の祖となったと考えられる。